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あの子は昇っていく 何もおそれない そして舞い上がる(ひこうき雲/荒井由実)

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[※ネタバレあり]
 
宮崎駿の最新監督作「風立ちぬ」。
封切り以前から巻き起こる賛否両論も恒例行事どころか
もはやキャンペーンの一環となっている巨匠の一作だが、
その後もあらぬ方向からの難癖をつけられつつ好評ロードショー中だ。
 
「ラピュタ」や「ナウシカ」を期待しているファンの中には、
ファンタジックでワクワクする冒険活劇が観たいという者もいる。
たしかに、本作においては一見したところそういった要素は希薄である。
事前から大人向け作品であることをアピールしていたのも肯ける出来だ。
 
しかしそれはあくまでも表面上の作りの話。
その本質はといえば、挑戦と冒険、そして男のファンタジーの塊に他ならない。
齢70にして新境地に足を踏み入れていくその姿勢には感服の一言。
その上で、「風立ちぬ」が駄作であるとされるのであれば、それもまた良しだと思う。
 
というところで言いたいことの大半はまとまったので、
以下は考えたことや感じたことの項目別「整理」。
捻った「批評」や「分析」にも、素直な「感想」にもならなかったのでこの体裁。あしからず。
 

■夢

『風立ちぬ』を一言で表すのならば、「夢」の物語ということになると思う。
 
その「夢」という言葉には大きく分けて2つの意味があり、
1つは次郎が追い求め続けた美しい理想の飛行機を作り上げんとする想い。
この場合、「夢」の意味は「(大きな)目標」「願い」などという言葉と置き換えることができる。
そしてもう1つが、眠りの中で体験する一連のシーン。
すなわち、二郎が憧れの設計士カプローニからの言葉をかけてもらう場面だ。
 
以上2つの「夢」が互いを誘うような形で物語(つまり二郎の人生)を進めていき、
その結果、全編にどことなく夢うつつなムードが漂う。
この演出は浮世離れした二郎の在り方をよく表しているとも言えよう(※詳しくは後述)。
 

■意図的に避けられた戦争への言及
 
本作の主な舞台は昭和20〜30年代。
第2次世界大戦の開戦を目前に控えた時期である。
当時、飛行機を作ることは即ち、軍用機を作ることを意味した。
クリエイターの意思や希望が介入する余地などない。
 
このような設定だけを鑑みれば、俗に言う「戦争もの」としての規定路線は自ずと見えてきて、
「お国のために」と奮闘する滅私の姿や国家の存亡を背負うプライドを美しく描いてもいいし、
反対に自らの意思とは反して人殺しの道具を作らねばならない葛藤を描いてもいい。
 
しかし、二郎の心にはそのどちらもがない(少なくともそう見える)。
彼は飛行機作りに対してあまりにも迷いがなく、
回線前夜の混沌の中、極めてマイペースに自分の道を突き進む。
もっと軽く、もっと速く、もっと美しく――。
 
そこに、二郎の盟友・本条が口にしたような、
飛行機を作るだけで兵器を作るつもりはないというような自己主張はない。
子供の頃に抱いた大空を翔る夢。ただそれだけのために二郎はひたすら鉛筆を走らせた。
 
その結果、本作は反戦のメッセージが全く欠落することとなっている。
これは、違和感が残るレベルで美化されていると評することもでき、
はっきり言って不自然ですらある。
が、その事実をあげつらって批評する方向に進むことは、
「風立ちぬ」を紐解くうえでは正しくないことは言うまでもない。
 

純粋という狂気
 
二郎は極めて純粋な男だ。
子供の頃の夢を失うことなく帝国大学に進学し、飛行機製造の職に就いた。
先述の通り、周囲の状況や自分の境遇に左右されることのない「夢追い人」なのだ。
 
そしてそのピュアネスは、ある種の狂気を少なからず内包する。
歴史に名を残してきた天才たちの中には、
無邪気で好奇心旺盛であるが故にどこか子供っぽさを感じさせる者がいたように、
マイペースに我が道を進む二郎にも少年のような印象を受ける。
 
その表出の一つに、夢の中でカプローニは二郎のことを
初めて出会った時から一貫して「日本の少年」と呼び続けている。
 
戦時下にありながら飛行機に対して兵器としての認識を持たず、
純粋な気持ちで飛行機を作り続けた二郎。
その生き方は羨ましくもあり、恐ろしくもある。
 

■大人のジブリ
 
かねてから「アニメは子供のもの」と公言してきた宮崎駿監督が、
初めて大人向けの作品として制作したことも公開前に話題となった。
実際、出来上がったものは紛うことなく大人向けの仕上がり。
映画館で楽しんでいる観客に子供の姿はほとんど見られなかった。
 
そのアダルトさを象徴するアイテムとして挙げられるのがタバコだ。
作中、二郎はタバコをよく吸う。すきあらば吸う。
あまりに喫煙シーンが多いので印象がぼやけて埋れてしまうほどだが、
それくらい喫煙が特別ではない日常の所作となっていることで、
普通の大人のクリエイター(達)の姿を自然に描写している。
 
「大人の」という枕詞からもう一つ想起されるのがセクシャルな要素。
過去作品を見直して数えるまでもなく、キスの回数はジブリ史上最多であり、
さすがに直接的に体を交わらせる描写こそないものの、夜中に二郎を寝床で誘う場面は
これまでのジブリ映画の感覚で観ているとドキッとする。
(きっと、夏休みアニメのつもりで子供を連れて行った保護者達はヒヤッとしたことだろう。)
 
以上が大人向け作品として、制限を解除した要素。
そして、公開後に様々な団体・個人から攻撃を受けている部分でもある。
だが、これらはいずれも演出上の「道具」もしくは「外面」の大人っぽさ。
忘れてはならないのが、キャラクター達の演技や空間に委ねた部分の多さである。
 
『風立ちぬ』において、登場人物の多くが自分の本音を口には出さず、多くを語らない。
それは、昭和初期という時代の日本人の性向でもあるだろうし、
主人公である二郎のパーソナリティによる面もあるだろうが、
それにしてもジブリファンが期待するような言い回し、
所謂名ゼリフとして数えられる発言は非常に少ない。
 
代わりに、会話の間や表情はことのほか雄弁だ。
万感の思いを胸に秘めつつも、言葉にして出すことはしない。
そんな場面が印象深く、宮崎駿の言う「大人向け」の前置きの意味するものは、
こういったセリフの使い方に関係する部分も大いにあることがわかる。
 
また、これは否定的な例として挙げるわけではないが、「風立ちぬ」の鑑賞後は
「紅の豚」のポルコ・ロッソですら喋りすぎだったような感覚に。
今思えば、ポルコはかなりわかりやすく(偏って)解釈された「大人」キャラであった。
 

■魅力的なサイドキャラクター
 
ここまで書いてきたように、二郎は天才的で純粋だが、腹の底が知れない少しズレた男だ。
そんな彼を支える妻・菜穂子も、死に直面して生きてきたことで強すぎるほどに強い。
つまり、二人とも俗人とは一線を画す存在の人間で、
それだけに物語のキャラクターとしては若干投影のし難い面がある。
変に崇高な印象が拭い去れないのだ。
そこで、周囲を固めるサブキャラクターの役割が重要になってくるのだが、
ここを外して来なかったのはさすがの宮崎駿だと思う。
 
まず、二郎の妹・加代。
作中で最も喜怒哀楽の表現がストレートで、妹ならではの可愛らしさを存分に発揮。
「風立ちぬ」の「大人」の世界にあって、彼女の「子供っぽさ」は良いアクセントとなり、
物語に瑞々しい感情の煌めきを付与してくれている。
 
二郎を助ける人物としては、カストルプを挙げたい。
療養中に出会ったこの異人もどうやら訳ありらしいのだが、
それを微塵も感じさせない明朗快活な立ち振る舞い。
二郎と菜穂子のキューピッドとしても活躍した彼は、
日本と外国の距離が縮まりつつある時代の象徴でもあった。
 
また、登場時間こそ多くはないが、二郎の上司である黒川の妻も良い。
二郎と菜穂子が結婚を決意したその夜、二人と同じく覚悟を決めた彼女は、
突然訪れた大役を慌てることなく堂々と完遂。天晴である。
つまり、これまでのジブリ作品でも描き続けられてきた「女性の強さ」を体現する人物であり、
その既視感はファンに一種の安心感を与えてくれる。
 


宮崎駿は「その時」が近いのだろう。
故に、クリエイターの生き様や業をこのタイミングでアニメ化したことから、
本作を自伝的な作品として捉えることは間違いではないはずだ。
仮に本人にはその意図がなかったとしても、
題材からして相当にパーソナルな趣があることは否定できない。
 
また、本作だけでなく前作「崖の上のポニョ」のラストシーンにおいても然りなのだが、
彼のメッセージや想いは徐々に剥き出しのまま作品の中に織り込まれつつあり、
その結果ついてくる生々しさは気持ち悪さや仄暗さにも似た後味を残す。
詰まる所、ファンタジーとしては成立しなくなってきている。
それでも、それだからこそ、この作品には力があると思う。

いざ、生きめやも。
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by taku_yoshioka | 2013-09-08 00:24 | movie

Ok, it's the stylish century


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