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あの子は昇っていく 何もおそれない そして舞い上がる(ひこうき雲/荒井由実)

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[※ネタバレあり]
 
宮崎駿の最新監督作「風立ちぬ」。
封切り以前から巻き起こる賛否両論も恒例行事どころか
もはやキャンペーンの一環となっている巨匠の一作だが、
その後もあらぬ方向からの難癖をつけられつつ好評ロードショー中だ。
 
「ラピュタ」や「ナウシカ」を期待しているファンの中には、
ファンタジックでワクワクする冒険活劇が観たいという者もいる。
たしかに、本作においては一見したところそういった要素は希薄である。
事前から大人向け作品であることをアピールしていたのも肯ける出来だ。
 
しかしそれはあくまでも表面上の作りの話。
その本質はといえば、挑戦と冒険、そして男のファンタジーの塊に他ならない。
齢70にして新境地に足を踏み入れていくその姿勢には感服の一言。
その上で、「風立ちぬ」が駄作であるとされるのであれば、それもまた良しだと思う。
 
というところで言いたいことの大半はまとまったので、
以下は考えたことや感じたことの項目別「整理」。
捻った「批評」や「分析」にも、素直な「感想」にもならなかったのでこの体裁。あしからず。
 

■夢

『風立ちぬ』を一言で表すのならば、「夢」の物語ということになると思う。
 
その「夢」という言葉には大きく分けて2つの意味があり、
1つは次郎が追い求め続けた美しい理想の飛行機を作り上げんとする想い。
この場合、「夢」の意味は「(大きな)目標」「願い」などという言葉と置き換えることができる。
そしてもう1つが、眠りの中で体験する一連のシーン。
すなわち、二郎が憧れの設計士カプローニからの言葉をかけてもらう場面だ。
 
以上2つの「夢」が互いを誘うような形で物語(つまり二郎の人生)を進めていき、
その結果、全編にどことなく夢うつつなムードが漂う。
この演出は浮世離れした二郎の在り方をよく表しているとも言えよう(※詳しくは後述)。
 

■意図的に避けられた戦争への言及
 
本作の主な舞台は昭和20〜30年代。
第2次世界大戦の開戦を目前に控えた時期である。
当時、飛行機を作ることは即ち、軍用機を作ることを意味した。
クリエイターの意思や希望が介入する余地などない。
 
このような設定だけを鑑みれば、俗に言う「戦争もの」としての規定路線は自ずと見えてきて、
「お国のために」と奮闘する滅私の姿や国家の存亡を背負うプライドを美しく描いてもいいし、
反対に自らの意思とは反して人殺しの道具を作らねばならない葛藤を描いてもいい。
 
しかし、二郎の心にはそのどちらもがない(少なくともそう見える)。
彼は飛行機作りに対してあまりにも迷いがなく、
回線前夜の混沌の中、極めてマイペースに自分の道を突き進む。
もっと軽く、もっと速く、もっと美しく――。
 
そこに、二郎の盟友・本条が口にしたような、
飛行機を作るだけで兵器を作るつもりはないというような自己主張はない。
子供の頃に抱いた大空を翔る夢。ただそれだけのために二郎はひたすら鉛筆を走らせた。
 
その結果、本作は反戦のメッセージが全く欠落することとなっている。
これは、違和感が残るレベルで美化されていると評することもでき、
はっきり言って不自然ですらある。
が、その事実をあげつらって批評する方向に進むことは、
「風立ちぬ」を紐解くうえでは正しくないことは言うまでもない。
 

純粋という狂気
 
二郎は極めて純粋な男だ。
子供の頃の夢を失うことなく帝国大学に進学し、飛行機製造の職に就いた。
先述の通り、周囲の状況や自分の境遇に左右されることのない「夢追い人」なのだ。
 
そしてそのピュアネスは、ある種の狂気を少なからず内包する。
歴史に名を残してきた天才たちの中には、
無邪気で好奇心旺盛であるが故にどこか子供っぽさを感じさせる者がいたように、
マイペースに我が道を進む二郎にも少年のような印象を受ける。
 
その表出の一つに、夢の中でカプローニは二郎のことを
初めて出会った時から一貫して「日本の少年」と呼び続けている。
 
戦時下にありながら飛行機に対して兵器としての認識を持たず、
純粋な気持ちで飛行機を作り続けた二郎。
その生き方は羨ましくもあり、恐ろしくもある。
 

■大人のジブリ
 
かねてから「アニメは子供のもの」と公言してきた宮崎駿監督が、
初めて大人向けの作品として制作したことも公開前に話題となった。
実際、出来上がったものは紛うことなく大人向けの仕上がり。
映画館で楽しんでいる観客に子供の姿はほとんど見られなかった。
 
そのアダルトさを象徴するアイテムとして挙げられるのがタバコだ。
作中、二郎はタバコをよく吸う。すきあらば吸う。
あまりに喫煙シーンが多いので印象がぼやけて埋れてしまうほどだが、
それくらい喫煙が特別ではない日常の所作となっていることで、
普通の大人のクリエイター(達)の姿を自然に描写している。
 
「大人の」という枕詞からもう一つ想起されるのがセクシャルな要素。
過去作品を見直して数えるまでもなく、キスの回数はジブリ史上最多であり、
さすがに直接的に体を交わらせる描写こそないものの、夜中に二郎を寝床で誘う場面は
これまでのジブリ映画の感覚で観ているとドキッとする。
(きっと、夏休みアニメのつもりで子供を連れて行った保護者達はヒヤッとしたことだろう。)
 
以上が大人向け作品として、制限を解除した要素。
そして、公開後に様々な団体・個人から攻撃を受けている部分でもある。
だが、これらはいずれも演出上の「道具」もしくは「外面」の大人っぽさ。
忘れてはならないのが、キャラクター達の演技や空間に委ねた部分の多さである。
 
『風立ちぬ』において、登場人物の多くが自分の本音を口には出さず、多くを語らない。
それは、昭和初期という時代の日本人の性向でもあるだろうし、
主人公である二郎のパーソナリティによる面もあるだろうが、
それにしてもジブリファンが期待するような言い回し、
所謂名ゼリフとして数えられる発言は非常に少ない。
 
代わりに、会話の間や表情はことのほか雄弁だ。
万感の思いを胸に秘めつつも、言葉にして出すことはしない。
そんな場面が印象深く、宮崎駿の言う「大人向け」の前置きの意味するものは、
こういったセリフの使い方に関係する部分も大いにあることがわかる。
 
また、これは否定的な例として挙げるわけではないが、「風立ちぬ」の鑑賞後は
「紅の豚」のポルコ・ロッソですら喋りすぎだったような感覚に。
今思えば、ポルコはかなりわかりやすく(偏って)解釈された「大人」キャラであった。
 

■魅力的なサイドキャラクター
 
ここまで書いてきたように、二郎は天才的で純粋だが、腹の底が知れない少しズレた男だ。
そんな彼を支える妻・菜穂子も、死に直面して生きてきたことで強すぎるほどに強い。
つまり、二人とも俗人とは一線を画す存在の人間で、
それだけに物語のキャラクターとしては若干投影のし難い面がある。
変に崇高な印象が拭い去れないのだ。
そこで、周囲を固めるサブキャラクターの役割が重要になってくるのだが、
ここを外して来なかったのはさすがの宮崎駿だと思う。
 
まず、二郎の妹・加代。
作中で最も喜怒哀楽の表現がストレートで、妹ならではの可愛らしさを存分に発揮。
「風立ちぬ」の「大人」の世界にあって、彼女の「子供っぽさ」は良いアクセントとなり、
物語に瑞々しい感情の煌めきを付与してくれている。
 
二郎を助ける人物としては、カストルプを挙げたい。
療養中に出会ったこの異人もどうやら訳ありらしいのだが、
それを微塵も感じさせない明朗快活な立ち振る舞い。
二郎と菜穂子のキューピッドとしても活躍した彼は、
日本と外国の距離が縮まりつつある時代の象徴でもあった。
 
また、登場時間こそ多くはないが、二郎の上司である黒川の妻も良い。
二郎と菜穂子が結婚を決意したその夜、二人と同じく覚悟を決めた彼女は、
突然訪れた大役を慌てることなく堂々と完遂。天晴である。
つまり、これまでのジブリ作品でも描き続けられてきた「女性の強さ」を体現する人物であり、
その既視感はファンに一種の安心感を与えてくれる。
 


宮崎駿は「その時」が近いのだろう。
故に、クリエイターの生き様や業をこのタイミングでアニメ化したことから、
本作を自伝的な作品として捉えることは間違いではないはずだ。
仮に本人にはその意図がなかったとしても、
題材からして相当にパーソナルな趣があることは否定できない。
 
また、本作だけでなく前作「崖の上のポニョ」のラストシーンにおいても然りなのだが、
彼のメッセージや想いは徐々に剥き出しのまま作品の中に織り込まれつつあり、
その結果ついてくる生々しさは気持ち悪さや仄暗さにも似た後味を残す。
詰まる所、ファンタジーとしては成立しなくなってきている。
それでも、それだからこそ、この作品には力があると思う。

いざ、生きめやも。
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by taku_yoshioka | 2013-09-08 00:24 | movie

Let me know before I wave goodbye(When Can I See You Again?/Owl City)

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本当はゲームのキャラクター達にも意思や感情があり、
ときに喜び、ときに悩み、日々を過ごしているとしたら。
そして、子供達がいなくなった閉店後のゲームセンターでは、
人間と同じようにそれぞれの暮らしがあるとしたら。

そんな、アーケードゲーム版『トイ・ストーリー』とも言うべき設定の下、
『ロジャー・ラビット』並の特別出演に彩られているフリーキーな一作が、
現在公開中のディズニーの最新長編アニメーション映画『シュガー・ラッシュ』だ。

同時進行する大小のエピソードの中でキャラクターの能力や特性を伏線として展開し、
徐々に本線へと合流しながらグランド・フィナーレに向かって収束するプロットは見事。
手法自体は目新しくはないとは言え、その抜かりのなさに流石ディズニーと思わず膝を打つ。
やるべきことを確実にやりきる、プロフェッショナルな仕事だ。
自らの「役割」と「運命」について説く台詞の繰り返しは若干説教臭いが、
これもまた王道を行くための必要条件なのだと思えば気にならない。

しかし、このようなしっかりしたストーリーの枠組みだけでは、
下手をするとシンプルすぎて大味な作品にもなりかねないところ。
ここをクリアし、大人達も(そして大人達こそ)楽しむことができるのは、
かつて「子供達」だった我々のノスタルジーを多分にくすぐる細部の作り込みにある。

例えば、悪役キャラクターが一堂に会しての集団セラピー。
マリオシリーズからクッパ、ソニックシリーズからドクター・エッグマン、
そしてストリートファイターからはザンギエフとベガといった具合に、
名だたる名作ゲームから錚々たる面子のヒールが勢揃い。
会の締めくくりに手をつなぎあい、自らに言い聞かせるように
悪役の行動規範を読み上げるというシュールな演出は、完全に大人がターゲットである。

他にも、勤務後のリュウがバーで飲んでいたり、
主人公のラルフがとっさに出した偽名がララ・クロフトであったり、
果てはコナミコマンドまで登場するのだからなかなかのギークっぷり。
また、ドット絵の8ビットゲーム(「フィックス・イット・フェリックス」)のキャラクターと、
高解像度の最新FPSゲーム(「ヒーローズ・デューティ」)のキャラクターでは、
動きの滑らかさが差別化されているあたりも芸が細かい。

「引き」で観てもよし、「寄り」で観てもよしの、良いマニアックさのある作品。


(余談)
作中の架空アーケードゲーム「フィックス・イット・フェリックス」は、
ブラウザゲームとしてディズニーのサイトにて公開中。
これもまた作品世界を構築する上で的確な方策の一つ。

(余談2)
原題の「Wreck-It Ralph」は、ゲームタイトルの「Fix-It Felix Jr.」との対比となっており、
これによって主人公(=ヒーロー役)が逆転したことを端的に表されていたのだが、
邦題がレースゲームのタイトルを採用してしまったことで、本来持っていた意図は失われている。
配給会社の意図は理解しつつも、少し残念なポイント。
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by taku_yoshioka | 2013-04-05 00:16 | movie

「神様 この記憶だけは消さないでください。」

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ディジュリドゥ奏者・GOMAは2009年11月26日に首都高速で追突事故に遭った。
なんとか一命を取り留めたが、彼には高次脳機能障害の影響が残ってしまう——。

このドキュメンタリーは、GOMAの「再生」を描いた作品ではない。
障害は完治したわけではなく、今もなお挑戦の日々は続く。
彼はようやく歩き始めることのできた第2の人生の途次の真っ只中にあるのだ。

「現在」を象徴する渋谷WWWでのパフォーマンスのバックには、
「過去」に撮りためられていたGOMAの歩みを記録した映像が流れる。
ここに映し出される多くの出来事を、GOMAは思い出すことは出来ない。
その焦燥や絶望は計り知れないものだと思う。
GOMAとその妻がそれぞれの思いと言葉で綴った事故後の手記は、
率直で生々しい感情が刻まれた命の記録だった。

3D処理によって個別のレイヤーに分けられた2つの時間軸は、
一見それらが分断されてしまった状況を示唆しているいるようで、
現在が過去の積み重ねの上にあることを語ってくれる。
(ここが演出上の妙であり、本作を3Dで作り上げる必然性でもある。)
GOMAの記憶の欠落は、その過去そのものが失われたことを意味せず、
身体が楽器の吹き方は覚えていたように、誰もGOMAのことを忘れてはいない。

GOMA自身は、もしかしたらこの映画のことも覚えていられないかもしれない。
(松江監督のコメントに拠ると、現に撮影時のことは覚えていないらしい。)
先日NHKで放送された旅番組で果たしたオーストラリアでの再会も、
昨年のRISING SUN ROCK FESTIVALでの帰還の勝どきも、
忘れたくないと思っていても記憶の箱から零れ落ちてしまうのかもしれない。
それならば、GOMAの替わりにというのもおこがましい話だが、
彼の足跡や演奏、そしてこの映画のことを覚えておきたい。そう思った。

GOMA & The Jungle Rhythm Sectionのライブは、これから先の「未来」でも続いていく。
幾台ものドラムとパーカッションが生み出すトライバルなリズムの洪水の中、
呪術的な手の動きのバンドリーダーがディジュリドゥの音色を解き放てば、
全身全霊を振るわせるスペーシーなトリップ・タイムが用意される。
その時間、空間、そして瞬間は、多くの人々の忘れられない記憶になるはずだ。
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by taku_yoshioka | 2013-02-18 21:58 | movie

no pain no gain

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[※ネタバレあり]

1993年に実際に起きた埼玉愛犬家連続殺人事件を下敷きに園子温が映画化。
怒涛の勢いと迫力の映像で破滅へと突き進む傑作サスペンス。

本作の見所を語る上で、真っ先に取り上げたいのがでんでんの怪演だ。
表向きは快活で人当たりの良いペットショップのオーナーでありながら、
その実体は変質的殺人を繰り返すサイコキラー・村田幸雄。
鼻歌交じりでこともなげに「ボディを透明にする」異常者を見事に演じ切った。
数々の映画賞において助演男優賞を総ナメにしたこともうなずける。
そして、その妻役(これまた狂人)の黒沢あすかもまた好演。
クレイジーだが儚く脆い、色気を漂わせるパートナーとして存在感を見せている。

繰り返される殺人にセックス・アンド・バイオレンスが支配する本作にあって、
それでもどこか気持ちが良かったりすんなり受け入れられたりするのは、
突き詰めると「人間」を描いているからではないかと思う。
自分の意志と力で人生を決めていくこと。その上で責任を取ること。
本当は誰もが持っているにも関わらず、社会において暮らすうちに押さえつけている性欲や支配欲、
怒りや憎しみ、その他全てのエゴイスティックな部分。誰にでもある心の隙間。
生きる上で付きまとう痛み。そして、それから逃げずに向き合うこと。
殺人礼賛をする気はさらさらないが、この狂気の沙汰を他人事として距離をおくことはできない。

また、テーマの一つに「父殺し」も織り込まれていることも忘れてはならないポイントだ。
作中での描写はないものの村田の台詞からは自身の父親を手にかけたことが分かるし、
殺人から始まる一連の手口の継承者(≒息子)として選ばれた主人公・社本によって自らも命を絶たれる。
しかしその社本は、この連鎖に終止符を打つために——。

150分に及ぼうかというボリュームの中に濃縮された激情と勢いは、
ヘビーだからこそ思い切り殴られたような鈍い痛みと快感をもたらす。
終盤には切断された肉片も気にならないほど「普通」の感覚が麻痺してしまうのだが、
その状態ですらも心地よかった気がする。
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by taku_yoshioka | 2013-01-13 13:51 | movie

埼玉生まれブロ畑育ち 山の幸とはだいたい友達(MC MIGHTYの上京ラップ/MC MIGHTY)

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[※ネタバレあり]

北関東を舞台に繰り広げられた『SRサイタマノラッパー』の3作目にして完結編。
シリーズ最高傑作との呼び声も頷ける完成度だ。

本作のストーリーの大筋は、タイトルからもわかるようにマイティの「逃亡劇」である。
音楽で一旗揚げるべくサイタマを去ったマイティは、
東京の地にて極悪鳥というクルーの見習い(というより下働き)に。
グループの一員としてステージに立つ日を夢見るマイティだったが、
約束を反古にされたことを発端に一悶着を起こす。結果、東京から栃木へと都落ち。
そこでどうにか仕事にありつくものの、生活も落ち着いて来た頃に傷害事件を起こしてしまい、
栃木にもいられなくなった彼が最終的に辿り着いた先は、冷たい檻の中だった。

夢に溢れた上京だったはずが、いつの間にか逃げてばかりの転落人生になっていたマイティ。
だが、彼はそのどれよりも罪深い逃走を犯していた。
一番やりたかったはずの音楽(=ラップ)から逃げていたのだ——。

作品のムードに話を移すと、これまでの2作よりも重くダークであることには触れておきたい。
前2作にあった地方特有のほのぼのとした(もう少し角が立つ言い方をすれば間の抜けた)バイブスは影を潜め、
その代わりに暴力や犯罪であったり、それらに加担する強面のヤンキー風の人物が幅を利かせる。
もはや、第1作で「ブロ」絡みの緩い笑いを提供してくれたマイティの姿はない。
また、誰かから逃げて走っているシーンが多く、印象に残るのは切羽詰まった表情ばかり。
追われている状況が続くため、合わせて緊張状態も絶え間なく続く。
それだけに、イックとトムのコンビが醸し出す相変わらずのノリは良いコントラストを作り出し、
終始仄暗い作品にあって一筋の光明を見せてくれてもいたのだが。
(第1作を見終わった時点では、この二人がこのような役割を果たすとは思いもよらなかった。)

シリーズで一貫して多用された長回し演出は、この作品で過去最高の到達点を迎えたと言っていい。
特に、クライマックスの野外フェスのシーンでの15分にも及ぼうかという長回しは、
多少の整合性や現実味の欠落をカバーして余りある出来となっており、
作り手を初めとして本作品に関与した全ての人々の熱意が封じ込められている。必見。
(また時間にすると短いが、冒頭のクラブでのライブシーンに至る一連の撮り方も良い。)

3作目を観て、そしてシリーズの完結に際して思うのは、イックの「火付け役」としての資質だ。
主人公として据えられた第1作では、ニート臭さや小物っぽさ、求心力の低さが露見しつつも、
徐々に仲間達がクルーから離れていく中ただ一人ラップへの思いを失わなかった彼は、
魂を込めたフリースタイルで最後の最後でトムの心を呼び戻すことに成功する。
続く2作目では群馬にまで出向き、TKD先輩の聖地へと足を運んだだけでなく、
そこで出会ったばかりのアユムの心の奥底に眠っていた想いを開放。
そして、極めつけはこの3作目のラストを飾る留置所でのマイティとの対話である。
イックのラップはスマートでもテクニカルでもなく、残念ながら売れそうな匂いはしない。
が、行く先々で出会った人々の魂をふるわせて、燻っていた情熱に火を付け続けた。
TKD先輩のようなカリスマ性は持っていないものの、その影響力は大きい。

3部作構成にして、こんなにも着実なスケールアップを果たした作品は希有だろう。
本当に本作がシリーズ最終作となるとすれば、絶頂のうちに終わることになる。
インディー映画が残した快挙と共に、構造上の歪みを顕在化させたことも含め、
極めてエポック・メイキングな作品とムーブメントだった。
例え映画作品としての「続き」はなくとも、彼らが残した物語は全国各地で続いていくはずだ。

『SRサイタマノラッパー』は、夢を追いかける若者が描いてこそいるが、
「頑張れば、夢は叶う」といった都合の良いメッセージを伝えたりはしない。
現実は努力や気持ちだけではどうにも解決しないことがあって当然なのである。
それでも若者は夢を追うし、その姿は人の心を打つのだ。
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by taku_yoshioka | 2013-01-07 21:59 | movie

シュシュシュ めくられたカード シュシュシュ 夢が飛び出すの(ワック♪ワック♪B-hack/B-hack)

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[※ネタバレあり]

昔から「続編に名作無し」とはよく言われるところだが、
『SRサイタマノラッパー2〜女子ラッパー☆傷だらけのライム〜』は
そんなジンクスを軽く跳ね除けた快作だ。

些か乱暴な説明にはなるが、基本的には前作とはほぼ構成要素や展開を踏襲しつつ、
全体のブラッシュアップ/スケールアップを図った続編、というのが本作の概要になるだろう。
ただ、この精錬の度合いが「続編」との情報から想像されるレベルを超えており、
完成度は単なる2作目ではない別物といっていいほどに押し上げられた。
より大衆/一般向けになったと表現してもいい。

元々、プロットやシーンの作り方に関しては水準以上だった『SRサイタマノラッパー』だが、
撮り方の引き出しにも幅が出て映像としての強度が向上。
加えて、より良い器材を使えるようになったことで単純に画質も改善。
登場人物に目を向けると、今回の主人公となった20代後半の「女子」たちの痛々しさは、
「いい歳して」の響きがまた別の重みを持って心を打つ。
(ここには彼氏ナシの悲壮感の少なさこそが最も悲壮感に溢れるという恐ろしさも含まれる。)

物語はクライマックスの三回忌のシーンにて最高潮を迎える。
最前列中央のアユムを取り囲むようにして一同をフレームに収め切った構図からして素晴らしく、
昭和の名画を思い起こさせる普遍的な魅力すら感じさせる。文句なしの名場面。
親族に対しては頼りなさげに曖昧な口調と声量で応対していたアユムだったが、
次々と思いの丈をラップしに来る「乱入者」に促され、入魂のバースをキック。
実は状況という意味では何も解決はしていなかったりはするのだが、
アユムが殻を破ってこれから自分の道を信じて進んでいける予感がたしかにあった。

そして、続くエンドロールの映像も良い。
恋人はおらず、なんとなく働き、それでも曖昧な夢だけはある。
そんなときにヘッドフォンをつけて好きな音楽を聴きながら
人気の少ないお気に入りの道に差し掛かれば、
自然とあのような浮かれた歩き方になることだろう(少なくとも個人的にそうしたくはなる)。
やはり、この物語は主人公の名前通り「歩む」ことが大きなテーマなのだ。

さて、そんな『SRサイタマノラッパー2』が前作から変わってしまった部分についても最後に考えてみたい。
これは、端的に言えば「生々しい居心地の悪さ」になると思う。
ただ、言葉にして説明するには少し難しく、具体的な該当箇所を挙げるのであれば、
『SR』での名場面「会議室での擬似ライブ」やラストの「焼肉屋での説得フリースタイル」が一応は該当する。
しかし、前作が持っていた嫌な感じの元凶にあったのは、HIPHOPや日本語ラップへの不理解や誤解であり、
さらにはそれを扱った作品そのものへの信頼の少なさ(ないしは不明瞭さ)でもあった。
その後、「サイタマノラッパー」は一つのブランドとして認知され(てしまっ)た。
結果として、いかに似通った構成や展開を用いたとしても、
2作目では身悶えをしながら各場面と向き合うことはなくなったのである。

この微妙な感触は、インディーズレーベルから出した作品とメジャーデビュー後の作品との間に生じる、
繊細で制御困難な違いにも準えることが出来るかもしれない。
例えば、RIP SLYMEの『Talkin' cheap』と『FIVE』はどちらも名盤だが、
根幹部分は一貫して何一つブレていないながらも、
知名度や人気といった環境面から音質や音楽性の幅といった品質面まで、
上のステージに進むことで変わらざるを得なかった部分がある。
果たして『Talkin' cheap』の持つローファイな質感や「あと一歩」な雰囲気は、
『FIVE』からは失われるべくして失われたのである。
(もちろん、失ったという言い方は最適ではないし、そもそも得たものの方が大きいが。)

脱線気味な結びとなってしまったが、新ためて記しておこう。
『SRサイタマノラッパー2』は前作超えの快作だ。
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by taku_yoshioka | 2012-12-20 00:23 | movie

fly like seagulls

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[ネタバレあり]

デビュー以来ハズレ無しと言ってもいいであろう仕事人・西川美和の最新作。
自らでオリジナル脚本も手がけ、昨今の邦画界において最も信頼のおける監督の一人である。
これまでの作品でも「騙す」ことや「欺く」ことを大きく取り上げてきた彼女だが、
本作のトピックとして取り上げたのはズバリ「結婚詐欺」。
物語の舞台も一つ屋根の下や村(社会)といった狭い世界から飛び出し、
一気に大都会東京へとスケールアップを遂げている。

貫也と里子の夫婦が二人で切り盛りする小料理屋は開店5年目を迎えて客入りも上々。
順風な人生を送る二人だったが、一瞬の不注意によって起きた火事で全てを失ってしまう。
失意に暮れ堕落していく貫也と、毅然として前を向き再出発へ夫を支えようとする里子。
とは言え、里子一人の頑張りではとてもどうにかなるような状況ではない。
そんな中、昇進から酔いつぶれた貫也が犯した一夜の過ちから、
里子は店の建て直しのための資金繰りについてのある閃きを得る。
それこそが結婚詐欺であった。

貫也は里子の書いたシナリオに従うまま所々で出会う女性にアプローチ。
結婚を仄めかせつつ情に訴え、それでいて決して自分からは働きかけることはなく、
あくまでも善意の申し出としてお金が差し出されるように仕組んでいく。
貫也の持ち前の人柄の良さと里子の同姓心理を利用した狡猾な手練手管による共同作業により
見事心の隙間に入り込んで篭絡していく様は、淡々としているが故に恐ろしい。
共依存を越えた共犯関係は、夫婦の究極の形なのではとさえ思う。
(この二人の姿をして、最新型のボニーとクライドだとまでは言わないが。)

さて、そんな"夢売るふたり"だが、大きなテーマに「女性」を持ってきているところが特徴的だ。
女性監督の手による作品なんだから当然だろうと思うかもしれないが、
過去作と比較しても圧倒的に女性の視点で女性を撮るという性質が強いように思う。
(同時にこれまでの作品が極めてフラットに「人間」を描写していたことに気付いて驚きもした。)

悲しくも貫也に騙されてしまう女性達の立場からして
キャリアウーマンにアスリート、子持ちバツイチの公務員に風俗嬢と様々。
そして、多様な価値観や生き方を持って暮らす中、それぞれに秘められたドラマ。
棚橋咲月の「結婚も出来ないやつだって思われるのに疲れただけ」や、
太田紀代の「今は自分の足で立ってるって感じがする」や、
皆川ひとみの「普通の幸せを知らずに生きていくのか」といった台詞は、
ストーリーの本筋に関わりこそしないものの、思わずハッとさせられる。
そんな彼女達が里子の思惑通りにあっけなく騙されてしまうあたりは、
西川監督が警鐘を鳴らしているようでもあり、共感しているようでもある。
女の強さ・弱さは、女こそ知ると言ったところか。

また、仮に結婚詐欺自体が貫也を唆しての「腹いせ」だとしたら、
このような形での復讐は女性ならではなのではと男性の自分は(個人的に)感じてしまう。
美人局的に自分のパートナーを他の男に抱かせて金を巻き上げることが出来たとしても、
その状況にすぐに耐えられなくなってしまうだろうし、
本当の気持ちがどうあれ他の女性と一夜を過ごしてきたところを、
里子のように冷静に迎えることなどできそうにない。
(そもそもの話として支配欲を満たそうとする場合、
どちらかと言えば監禁する方向に男の欲望は向かいがちだ。)
やはり、女性ならではの女性の落とし方なのではないだろうか。

他にも、里子が同情をひくための虚偽の病気として選択したのが乳がんであったり、
自慰行為や生理用品の交換によって露になる女性ならではの生活感であったり、
子供嫌いという訳ではない二人の間に漂う不妊の影だったりと、
「女性」を強く意識した(生々しい)演出や仕掛けは作品中に散りばめられている。
そのリアルな温度からくる「嫌な感じ」は、西川美和の真骨頂そのものだ。

主演の2人もさることながら、サブキャラクターの俳優陣も相当豪華。
メインキャスト級のラインナップがずらりと並び、
2時間半に及ぼうかと言う長編群像劇に推進力を与えている。
そんな豪華キャストに囲まれて、オーディションを勝ち抜いて採用されたという劇団員、
江原由夏が存在感を放っていたことは記しておきたい。
本作の役作りの一環としてウエイトリフティングに挑戦し、
全国大会で入賞するまでの実力を身につけた女優魂はスクリーンでも光っていた。

阿部サダヲと松たか子という両主演の華やかさや西川監督の人気などがあり、
これまでの作品の中でもとりわけ宣伝や露出に恵まれた一作ではある。
それだけに、大きすぎる期待や新規の観客を背負っての公開となったと思われるが、
静かなトーンで進行する長丁場のストーリー疲れもあってか、
間違いなく前作を越えたとは言いきれない評判となっているのが現状だ。
とはいえそこは西川美和。そのブランドの信頼性を再確認させてくれたことも間違いない。

最後に二つ。
松たか子演じる里子の沈黙は、どんな台詞よりも雄弁だった。
そして、そんな彼女の目は口ほどにものを言うのである。
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by taku_yoshioka | 2012-10-12 00:44 | movie

同じような窮屈を君も感じてる?不幸せばっか拾い集めなきゃいけないような淋しさを(陽はまた昇る/高橋優)

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[ネタバレあり]

朝井リョウ氏の手がけた原作の小説は、青春の刹那に光って揺れる心の機微を若い感性で紡いだ作品で、
その読後感は良い意味で曖昧で明るいものであった。
しかし、映画化にあたって吉田大八監督(そして共同で脚本を手がけた喜安浩平氏)は、
よくぞここまでという程に原作の中に潜在していた緊張感を引き出している。

この緊張感を生み出した要因の一つは、作品の構成にある。
桐島が姿を消してからの数日間の描写は少しずつ視点が変わりながら繰り返され、
短期間で起こった些細な(それでいて重要な)出来事の顛末を立体的/重層的に映し出す。
一見すると無関係な台詞や人物も少しずつリンクし、一瞬たりとも見逃すことを許さない。
そして、全てが一つに輻湊するグランド・フィナーレに至っては、
「日本映画史に残る」との煽りも納得の出来栄えだった。

緊張感の要因としてもう一つ大きいのは、劇中の人間関係の綻びだ。
心に余裕がないとき程自分の本性が出るというのはよく言われるところだが、
精神的に発展途上な高校生にとっては事のほか影響は大きい。
桐島の不在は、周辺の人間に「非日常」とそれに起因する不安感をもたらすのである。

桐島の恋人である梨紗は、一言の相談もなくいなくなってしまった事実に動揺し、
その友人である沙奈のセルフィッシュで思慮に欠ける言動が二人の間に小さな軋轢を生み出す。
リーダーの抜けたバレー部を率いる副キャプテンの久保の焦りや苛立ちは、
桐島のポジションの代役を急遽任されることになった風助へと向けられた。
そんな風助にシンパシーを覚える宮部実果と、対照的に見下した態度を取る梨紗や沙奈との間にも溝が出来る。
菊池宏樹を筆頭とした帰宅部グループは放課後にバスケットボールをする理由を失い、
結果的に吹奏楽部の沢島亜矢の密やかな楽しみを奪うことにもなった。
最終的にその余波はそれまで接点すらなかった前田涼也を始めとする映画部の面々にも及び、
桐島の影に吸い寄せられるように集まった屋上でビッグバンを引き起こす。

近い雰囲気を持った仲間同士で気楽につるんでいながらも、
些細なきっかけで不理解が浮彫りになる様を見せ付けられるのは、端的に言えば非常に嫌な感じだ。
ただ、この嫌な感じはリアルだからこそ。人間の本性を露にしただけに過ぎない。



この作品について考える上で、タイトルにも入っている「部活」というワードに注目してみたい。
まず、高校生を大まかに二分するセグメントの一つに、部活動へ参加しているかどうかがある。
劇中でも、部活をやっている者とそうでない者の立場は明確に分けられ、
些か極端かつ残酷ではあるが部活組よりも帰宅部組の方が「イケてる」グループとされている。
これは「部活オンリーの童貞と、セックスしまくりの帰宅部だったらどっちがいい?」
という放課後のバスケ中に竜汰が放った台詞に特に象徴的だ。
部活なんかやらずに適当にカッコよくやることが正義とされているのである。

だが、部活に参加していない者の価値観は危うい。
桐島がいなくなれば待つ必要もないので、放課後にバスケットボールをやる意味を失われる。
その結果「集合場所」が無くなり、彼らがあっけなく離散してしまう可能性も大いにある。
また、学校一のスターの彼女という梨紗のアイデンティティも、
恋人がバレー部のキャプテンの座を捨てることで少なからず揺らぐことは間違いない。
いずれにせよ、帰宅部グループの背骨となっていたのは桐島の存在で、
抜けてしまった途端に自分の拠り所がなくなり、うろたえてしまったという訳だ。

帰宅部グループに属し、一見冷めているかのような菊池宏樹は、
しかし静かに自分の在り方に疑問を抱いていた。
3年生でありながらも「ドラフトまで」と言って野球を続けるキャプテンや、
好きな映画で賞に挑戦する涼也の姿に、希望や目標のある人生の輝きを見ていたのである。
だが、突きつけられた現実はもっとドライで厳しいものであった。
キャプテンが自身もプロになれると思ってはいないことは理解していたものの、
涼也すらも「映画監督は無理」と感じて(悟って)いることを知ってしまう。
それでも、彼らは野球をやるし映画を撮るのである。
それが何かを好きだということであり、「部活」をやるということに他ならない。

ついに自分には何もないことに決定的に気付かされてしまった宏樹は、
すがるように桐島の携帯電話にコールを入れる。
だが、当然のごとくその呼び掛けに応えることはなく、
崩れ落ちんとする彼を映しながらエンドロールへ。
菊池宏樹のキャプションは所属先の部活が空欄の括弧となっている。
果たして、その後の彼がどのような選択をしたのか。

一つ補足しておきたいのは、本作が「部活」への参加を奨励するような、
青春熱血もののストレートな物語ではないということだ。
野球部キャプテンにせよ涼也にせよ、ある種の諦念の下に自分の道を歩んでいる。
だからこそ、カッコ悪くて強い。その力の前に宏樹は打ちひしがれたのではないだろうか。



この緊張感に満ちた作品を彩る各生徒たちを演じた若き俳優陣には、大きな賛辞を贈りたい。
"桐島、部活やめるってよ"という主役不在の特殊なストーリーにおいて、
ある者は瑞々しく、ある者は卑屈に、そしてまたある者は無邪気に、
リアルな青春の脇役たちを見事に演じ切っていた。

菊池宏樹を演じたモデル出身の東出昌大は、本作がデビュー作だというのだから驚きだ。
作中同様のあまりの「出来る奴」っぷりに小憎らしさすらあるが、それも良しとしよう。
また、本作中の「笑われ役」を一手に引き受けた武文役の前野朋哉も記憶に残る好演。
若くして多数の監督作を残している映画界の掛け値無しのホープにして、
その才をいい意味で感じさせない非モテ男子生徒の雰囲気は素晴らしかった。
アクセントを加え、ガス抜きをする意味でも、超重要な役回りであったと思う。

もちろん、主演(的な立ち位置)の神木隆之介はその実力を遺憾なく発揮していたし、
彼と同じく天才子役と称され、今回初共演となった大後寿々花も見事だった。

冒頭でも記した通り、映画化に当たって大幅に手が加えられたため、
良い意味で別物といえるような作品となっている。
映画の観賞後には、原作小説は設定資料集や副読本としての役目を果たすことになるだろう。
そして、映画と小説を往復しながら繰り返し楽しむことで、新たな発見があるはずだ。

かく言う自分も、観終えたばかりだが既に2回目が観たくなっている一人なのだ。
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by taku_yoshioka | 2012-09-19 01:44 | movie

きっと何だか嬉しくて きっと何だか切なくて 僕達は泣いていたんだ(evolution/浜崎あゆみ)

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[※ネタバレあり]

この映画を通じて監督である蜷川実花が撮ったのは、
漫画"ヘルタースケルター"では無く、女優・沢尻エリカであったという点については、
既に指摘されつくしているところだと思うので何も言うまい。
冒頭、早々にして露になる沢尻エリカの乳房は、この作品がセンセーショナルであるというイメージを
観る者に植えつけるべく「利用」され、その様が正にりりこ的。

漫画を原作にして実写映画化する際、どこまで監督のエッセンス(や主張)を織り込むかは、
元々のファンへの心象に与える影響も含めてバランスの取り方が難しいところだ。
蜷川実花は本作において、基本的な台詞や構成(≒中身)は岡崎京子へのリスペクトを示してほぼ改変せず、
色使いやカット割、そして衣装など(≒外見)において持ち前の個性を強く反映させた。
一目で蜷川実花の手によるものとわかる極彩色のカラフルな味付けは、決して原作に忠実ではない。
しかしながら、大いなる虚像を演じる沢尻エリカを魅せるという点においては大正解。
もちろん、原作の雰囲気を害したとも思わない。良い意味で別物として成立していると思う。

それよりも厳しいと思ったのは音楽。
率直に言ってしまえば、どれもが演出だとは理解しつつも
その大半は不必要であったり過度であったりという印象は拭えなかった。
岡崎京子の作品は特にトーンやベタもそこまで多くない白味の強い画風で、
作品中の「音」は騒がしくなく、そこに起因して生まれる緊張感は作品の生命線でもある。
よって、音楽を使う(流す)こと自体がかなりデリケートなのだが、
エンタメ作品として無くすわけにもいかずという葛藤の中、
上手く落とし所を見つけられなかったように見受けられるのが残念。
ただ、クライマックスでかかる浜崎あゆみの"evolution"は良かった。
2012年において、ここまで浜崎あゆみの楽曲が効果的に響くのも本作くらいのものだろう。
(個人的にはエンディングロールで流れたAA=も思い出補正込みで良かったのだが、
 周りで観ていた若い女の子達は次々と席を立ってしまっていた。うーん。)

沢尻エリカを除くその他のキャスト陣は、良くも悪くも役割を全うしている印象。
原作のイメージを大きく壊してしまう不快な演者もいなければ、
反対に映画版ならではの独自の解釈によって新しい側面を見せてくれた訳でもなかった。
そんな中、助演男優賞に推したいのは沢鍋錦二を演じた新井浩文。
原作ではヴィジュアルも含めて中性的なイメージの強いオネエキャラなのだが、この役を髭面で好演。
キャスト発表当初に感じた違和感を軽く飛び越したハマり役だった。
その他では、吉川こずえ役の水原希子や、御曹司役の窪塚洋介がなかなか。

作品に込められたテーマという観点から話すと、多くの人々の「欲望」を描き出した原作に対して、
りりこ個人の「美しさ」への執着にフォーカスした本作はより分かりやすい。
美しさ。果たしてそれを作り出すのは強さなのか若さなのか、
追い求めることはエゴなのかカルマなのか、答えなき命題の投げかけはポピュラリティの獲得を助ける。
果たして、異国の地で不敵な笑みを浮かべるタイガー・リリイは強かったのだが。(ここは沢尻エリカの良い仕事。)
ただ一方で、欲望の描写を削ぎ落とすことで吉川こずえの役割が少し薄まってしまったのが惜しい。
無欲の象徴として登場する彼女は、もっとスリリングな魅力があるはずだし、
水原希子はそれを受け止めるだけの器も持ち合わせていた。

詰まるところ、映画化に際して大きく欠落したのはユーモア(もしくは余裕)なのではないかと思う。
そして、ユーモアという要素は作り手の人間性に拠るところが非常に大きい。
基本的には原作に沿った方針で作品を作り上げつつも、
記者会見のシーンで独自のプロットの下に撮ることを選択した蜷川実花は、
原作の同場面での岡崎京子の読者を煙に巻くような良い意味の適当を(図らずも)奪い去ってしまった。
大森南朋が演じる検事にしても、本来は臭すぎる台詞の違和感と共に
笑い飛ばしてしまっていい役どころのはずなのに、
変に真面目に観るように促されたせいか劇場内が白けたような空気になっているのが心残りだ。

最後に、誤解のないように記しておくが、これだけ思いの丈を書き綴っておいて
「つまらなかった」ということは全く無い。
語り所を多く残してくれる、理想的な三ツ星映画。

おまけ
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by taku_yoshioka | 2012-09-02 13:31 | movie

it is written.

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冒頭から唐突で断片的なシーンが繰り返されながら、徐々に明らかになる主人公・ジャマールの数奇な人生。
警察にて拷問にも似た尋問を受ける現在と過去の回想とを行き来しつつ、
2つの時間を繋ぐのは「クイズミリオネア」の問題だ。

ダニー・ボイルが得意とする美しい映像は、成長著しいインドを舞台とすることで、
現地のスピード感とエネルギー、そこで渦巻く人間の感情を吸収・昇華し、
集大成と言うに相応しいほどに力強いものとなっている。
アーティスト性に寄り過ぎないバランスも絶妙。

と、構成には一捻りありつつも基本的にはシンプルなストーリーラインと、
腕利きの映像クリエイターの洗練された映像が同居している本作。
その仕上がりはと言えば、「名作」と言い切れるようなクラシカルな普遍性とまではいかないが、
内容良し、映像良しの紛れもない良作だ。

インドを舞台にした作品ということで、
エンドロールは「お約束」の歌と踊りのグランド・フィナーレ。
しかしながら、ダニー・ボイル・ブランドの映像の作風が良いフィルターとなり、
同じ踊りでもインド映画のローカル感とは違った印象に仕上がっている。
(このハイブリッドな感覚は、インドの音色をクラブミュージックに織り込んだ本作の音楽にも通じる。)


(余談)
本作で各賞へのノミネート及び受賞を果たし、
物語中の役と同様にシンデレラ・ボーイとなったデヴ・パテル。
しかし、次作の"エア・ベンダー"ではラジー賞の最低助演男優賞にノミネートされている。
悪くない役が与えられていたとは思うが、如何せん映画としての完成度が違いすぎた。
そのあたりの落差も含めての
まだまだこれからの俳優だと思うので、今年公開される予定の出演作品も観てみたい。
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by taku_yoshioka | 2012-05-14 01:00 | movie

Ok, it's the stylish century


by takuyoshioka

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